Apr16
“なまえ”一側面
2011年4月16日 松本
 歳上の友人が訪ねてきて、帰りしなにちょっと庭を見やって、都忘れが咲いてるねといった。どの花が都忘れというのか、私は知らなかったので、教えて貰った。薄紫色の、小さな菊のような花であった。
 その後、庭に何かの用事があって、女房に向って「都忘れのそばの」何とかかんとかと用事をいいつけた。女房も都忘れがどの花であるかを知らぬ。そこで乃公わざわざ出馬して、都忘れを指し示して「これが都忘れさ。なんだ、この花の名前を知らないか」と鼻をうごめかすことしばしであった。
 (中略)~今までにもうちの、猫のひたいほどの庭先きにも、春がくるといろいろの野鳥が飛んできたが、ウグイスを除いて全然名前も知らなかったので、珍しい鳥が飛んできても、おや、鳥がとんできたくらいで済ませていたが、近ごろでは多少わかるようになって、子供たちなどに向っては、おい四十雀がきたぜなどという。実は鳥類図鑑でせっせと名前を覚えるようにしているのである。だから私がその名前を知っている鳥が来客中にでも飛んできてくれればいいがと思うが、その春は四十雀しか飛んでこなかった。
 九州の下宿は丘の中腹にあって木立も深いから、春、庭先きにはたくさんの野鳥が飛んでくる。先日学生が二三人遊びにきた時に、実にうまい具合にジョウビタキが飛来した。そこで私はさりげなく、「ジョウビタキだね」と学生たちに指し示した。学生たちが、少しも感心したような風を見せなかったので、非常に残念であった。
 (中略)~都忘れという名を知って以来、私にとってうちの狭い庭に小さな花をつける都忘れは、ただの花ではなくなってしまって、私の存在と離れがたく結ばれたものになった。ジョウビタキだってそうだ、コガラだってそうだ。私がその名称を知るようになったところの、それらの自然物は、いわば私のものになったのだ。私と無縁のものとは思われなくなった。つまりそれだけ私はゆたかになったような気がする。(高橋義孝『ものの名』より)
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