Feb7
たまにええもん食ったら胃が受付へん
2006年2月07日 マドナシ
先日例の結婚式で
実家方面の人間に出会った折

今度京都遊びに行くし
美味しい店連れて行ってくれ的な話に
よくなったのだが。

王将とラーメン屋と
回転寿司しか知らない僕としては
なんとも答えれず
困りもんであった。

高校を出て取りあえず
始めた謎の独り暮らし時代は
衣食住全てにおいて
完全病的だったと思う。

今顧みると
何がそこまで僕を
後押ししていたのか非常に謎だ。

エロの類は
「キャー変態!」
とか称することができるウチは
ホント皮肉なしに健康的だ。

そういうなんがいいと思う。
世の中には笑えない事が山ほどある。

まぁそんなことは心からどうでもいいとして。

居心地の悪さは
音楽を作ることや、明日を生きるための
圧倒的な活力だ。

目指す場所は
平穏無事な安楽の地のはずなのだが

その地に行き着いたら
それは終わりな気がする。

そういえば
時折夢に見る死の瞬間という情景は
花畑であったり
ひどくきれいな夕焼けがバックであったり
取りあえず果てしなく美しい。

で、共通してるのは
自分で首をかききる姿。


まぁそんなことも心からどうでもいいとして。

最近携帯の待ち受けを
チャイナさんの告別式の帰りに
いただいた花をプラットホームで
写した写真にしている。

死に近い
死を連想させる何かは
生きている自分を写し
何か始まりの予感や
前向きな発想を発生させる。

少なくとも僕は。だが。


人間50年というのは
信長さんの時代だが
今は70年ぐらいか

ウチの家系は基本的の
もちょい早死の傾向がある。

上記間ぐらいかな。

その間にできることってな
一体どれぐらいあるってのか。
例え与えられたとしても
居心地の良い場所を感じるなら
そこにいればいい。

最近仲良くなる人間とそうでない人間の
違いを考えていたが。

明るい人とか無愛想な人とか
背が高い人とか低い人とか
そゆのは別にして

自然な人がええわね。
自然なんがええわ。

しかし、「個性」がどうこうとか
「自分」がどうこうと、多々語られる
このご時勢は歪んだ・よじれた人や
物が氾濫している。

その定義づけにしても
僕の勝手な解釈なんだから
語る口なし。

あえて前提をつける
僕の思うところの
「スマートな」「自然な」
人はある種のトーンの低いオーラに近いものが
見える、というか感じる。

そうでない人は色彩の濃いどす黒い色をしている。

スマートでない人の
色はキャンバスに落ちた絵の具のように
色を残すが、水分がないため広がることはない。

そして、合成着色料か何かで作られたその絵の具は
スマートな人のキャンバスに落ちると
すぐ変色してしまうため
元の色がすぐわからなくなってしまう。

その際、必死に自分の色を語ってくれるが
スマートな人は自分の色すら知らない。


僕には話す事があるが。
多くの人が語り、楽しく過ごすなら
僕は話さない。


そこには必要ないからだ。

明日はどこへ行こうかしらね





BGM
What If God Was One of Us/joan osborne
、、名曲だわね。
ガキん頃ずっとやってた
新聞配達を思い出す。
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